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2012.05.17 (Thu)

行好き

『念仏は行者のために、非行・非善なり。』

またいつの間にか念仏が行になっていた。
だから疲れる。

“このままでは終われない”
そう思うからこそ念仏を頑張ったけど、
頑張るから行になる。

一度暴走しだすとぶつかるまで止まれない。
自力の壁というか、疲れて“もう嫌”となるまで止まれない。
もう何もかもやめてしまいたいと思ったりする。

“なんでこんなことをやってるんだろう”
“なんでこんな苦労をしなければならないんだ”
“もうそろそろいいじゃないか、駄目ですか?”

そして、それがまた念仏になってくる。
“なんでこんな目に合うんですか”
“助けてください”

苦しいけどこういうときの念仏は
自力のそれではない(のだと思う)。

ああだろうかこうだろうかとはからっていると
とても念仏を続けることなんてできない。
はからいの中身での解決を求めているのではなくて、
はからう『自分』の解決を求めているのだから。

結局行として念仏を唱えるなら、
“なんのためにやっている、これをやって何を得ようとしている”
という思いが出てくる。
これが出てくるならアウト。

でも念仏に、オッケーも失格もない。
念仏はすべて念仏。
僕はすぐ“ふざけた念仏をしてたら駄目だ”と思うけど、
もうこういう考え方をしているときは
自力の念仏にすり替わっているのだろう。
どのタイミングですり替わるのか未だに自覚できない。

「救いの基準を満たさなければ救われない」というのだったら、
そんなものは救いでもなんでもない。
むしろ毒だ。それによって命を捨てる人もあるだろうから。

何のための『阿弥陀』か。
『摂取不捨』の意味をもう一度よく考えろ。

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20:43  |  未分類  |  トラックバック:(0)  |  コメント:(0)

2012.04.29 (Sun)

拝む

最近よく親鸞聖人にゆかりのある寺に参拝するようになった。
毎回1時間近く手を合わせている。
以前の僕からすればちょっと考えられない。
このごろになってようやく「仏を供養するとはどういうことなのか」
に対する自分なりの答えが出せそうになってきた。

仏に手を合わせるとはどういうことなのか。
それがわからなかったから僕は寺に行ってもなるべく
手は合わせなかったし、何らかのお願いもするわけがなかった。
だからもし仮に手を合わせても、無心でいるか
「お邪魔してます」と言うだけだった。
それも、もし何らかの罰が当たったら嫌だから
というかなり曖昧な理由でだった。
そもそも何を願えばいいのかわからなかったのだから。

「家内安全」「幸福祈願」「病気平癒」
それを願う「人情」は否定しない。
だが、それが叶ったところで一体何になる。
それを願うこと「こそ」が本当に仏に帰依するということなのか、云々。
それで何も願いようがなかった。

最近僕が願っているのは、
「一刻も早く信心決定させて下さい。
 明日といわず今この瞬間に。」
「勇気を下さい。忍耐を下さい。根性を下さい。」
と主にこんな感じのことを言いながら後は南無阿弥陀仏。
別にこう願うのが本道だとかそういうことではない。
最初は切羽詰ってなりふり構わずそう願っていただけで、
多分に神頼み的な要素が強かった。
でもやっている内にこれは願いというよりも誓いだな、と気が付いた。
と同時に、仏を拝むことの利益が現れはじめた(笑)

いつも僕は「こんなことでは駄目だ。もっとちゃんとしろ!」
と言うだけで、それがすんなり形になることは滅多にない。
そんなことを物心ついてからずっと繰り返してきたが、
最近(ゴロゴロしながら)己を叱り飛ばしている最中にふと、
寺で手を合わせているときの自分の姿を思い出した。
そうすると、「あれだけ親鸞聖人(の像)の前で
お願いしますお願いしますと言っておきながら、
結局自分では何もしないなんて失礼だろ」という気になってきて、
そうするといつもよりは(ちょっと)頑張れるようになった。

仏の願いは衆生済度以外にないはずだ。
それなら、仏が最も喜ばれるのは
衆生が仏になるべく奮起努力することだろう。
僕は寺に行くようになってから
その奮起が多少でも強くなった。
それは神秘的な力とかそんなものではなく、
ただの申し訳ないなという義理人情のような心のせい。
一体仏の利益というものにこれ以外に何があるか。
これ以外に何を喜ばれるというのか。

寺に1時間もいれば色んな人が参拝しに来るのが自然に見えてくる。
大半の人が、十円とか百円で
「パワー」とか「幸福」とか「出会い」とか
あるいは「気分転換」とか「変化のきっかけ」を買いに来ている。
彼らは仏を前にし仏に手を合わせているが、
彼らが本当に拝んでいるのは己の「欲」ではないか。
もちろん、家族の病気の治ることを切実に願っておられる方も
あるだろうし、その方達には今の僕は何も言えない。

あと来るのは、
仏像やお堂の芸術性を観に来る人。
感動もなさるだろうし、それは清い心だとは思うが、
彼らが見ているのは仏の像であって仏ではない。
彼らがその心を信仰心だと言うとしたら、
それこそ偶像崇拝ではないか。

少し気取ったことを言わせてもらうと、
多くの参拝客が
仏の前に立ち、仏の前で手を合わせ、仏を拝むが、
彼らは本当には仏を拝んではいない。
僕は、仏の前に立っていないときでも、
例えトイレの中にいたとしても、
仏の前で誓っていた姿をふっと思い出して気が引き締まったなら、
そのときは仏の前に立たなくても
仏と相対し、仏を拝んでいるんだ、と、
そしてこの行為こそが仏を供養するということなんだ、と、そう思う。

仏教が社会のメインになる必要なんてない。
でも、社会が「人情」に流されているなら、
それに対して己の全存在を懸けて法を説いていくのが仏教ではないか。
例え痛ましい事件の遺族に対しても、
ともに泣き、ともに人情に流されるのではなくて、
ともに泣き、人情に泣きながら、
それでも流されはしない厳然たる法を説くのが僧侶ではないか。
亡くなられた方も、遺族も、犯人も、社会も、世界も、自分も、
同時に救い、同時に成仏させ、この「今」を最大限に成就させていくのが
本当の僧侶の姿なのではないか。
それが仏の教えではないのか。


う~ん、どうも今回は調子に乗りすぎたかな・・・。

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17:34  |  未分類  |  トラックバック:(0)  |  コメント:(0)

2012.04.26 (Thu)

信心とは信じる心?

いつのまにか法を求めている。
とにもかくにも信心決定。
そう思って頑張っている。

信心とは何か。
信じる心。
だから信心決定と見性とは別物のように思っていた。

見性は道理を見ること。
信心決定は信じる心。

でも信心とは何だ。
信心とは正しい心。
凡夫の中に正しい心が起こるだろうか。
正しい心が起こる余地があるなら凡夫ではない。
仏の素質があるのだから仏だ。
凡夫の心を開発したところで正しい心は出来てきはしない。
だからこそ信心はいただくものと言われたのではないだろうか。
他力回向。

そうすると、信心とは単なる信じる心というような、
人間の感情とか意志とか心的作用の一種のことではなくなる。

ありがたいと思う心はどこから出てきたか。
どこにあったものか。どこに展開しているものか。
誰が用意した。誰が製造した。
誰がものを見、誰がそれをありがたいと見てとるのか。

諸行は無常。心は無常。
片時も静止することなく流れ続ける。
ものを見、ものを聞き、ものを感じ、ものを考える。
隙間なくひょいひょい移り変わる。
誰が移り変わっているのか。何が移り変わっているのか。

「僕の心、これがそのまま仏だ」なんて言うと、
「いやいや、こんなくだらないことや意味のないことばっかりを
 考えたりする、こんな心が仏のわけがない」と思えてくる。
心に線を引き、その内側の領域をプライベートにし、「僕」とする。
なら、その「僕」が出てくる前の心とは何だ。
「僕」でも「仏」でもない心とは一体何か。
それを見るべし。言うべし。

禅は学者や作家に人気がある。
大方、西洋の学問にない徹底した合理性を観じて
そこに惚れているのだろう。
一種のブランドとして求めている節もある。

果たしてそこに信心はあるか。
平気で「ない」と答えるだろう。
紛れもなく僕はそうだった。
「ただ真実を納得したい。
 仏教は真実に触れているだろうからそれを追求する。
 とりあえず祖師の言われたことを理解できる境地にまで行き、
 そこで改めて正邪を判断する以外にない。」と。

一体仏教の言う信心とは何なのか。
①それが正しいという根拠を見出した上で出てくる(であろう)心。
②正しいかどうかは現状ではわからないが、
 とにかくそれに賭ける以外にない、という心。
 もしそれが「はずれ」だったときはそれに賭けた人生そのものが
 「はずれ」になってしまう、けど仕方ないという文字通りの“命懸け”。

①は論外として、僕は信仰とは②ではないかと何となく思っていた。
でもどうやら違う。
ありがたいものをありがたいと見てとる心ではないか。
「ありがたい」と言い得る客観的な価値と
「ありがたい」と認識する主体があるのではなく、
ただ「ありがたい」があるのではないか。その心が。
(「心」といって、心の外部に世界があるわけではない。)

禅には一見して信心が見られにくく、
浄土には一見して理が見られにくい。
でもその根本では繋がっているのではないか、
と誰でもが言うようなことをわざわざ言い直してみる。

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2012.04.05 (Thu)

「はい、これが自分です」

とても受け入れられないもの。
本質的に受け入れられないもの。
生死。

阿弥陀さんというのはこの生死(に代表されるもの)を
受け入れさせてくださる方なのではないかと、最近思う。

極楽なんて別に往きたいと思わない。
そもそもどんなところなのかもわからない。
というかあるとは思っていない。
多分、それはある、と言えば仏教ではなくなる。
そんな夢を描くのが迷いなのだから。

往きたいとは思わないしどんなところかもわからない。
それはまさに「生死」。

どんなところかわかったうえで、よし、ここに決めました、
というのではない。
そもそも生死は選べないのだから。

その選べないものを選べないままに受け入れさせてくださる
ことが救いなのでは。

意味を求めれば際限がない。
欲は尽きない。
不足が補われない限り救いがないのだとしたら、
人間に救いはないといわざるを得ない。
だから不足を宿命付けられている存在としての自分を
「はい、これが自分です」と言えることが救いなのではないか。

極楽なんて願えない。
でも「はい、極楽へ往きます」と宣言することは、
「はい、私は生きて、そして死んでいきます」という宣言と同じではないか。
その宣言こそが「南無阿弥陀仏」ではないか。

強靭な精神力による、肩の力が入った宣言ではなく、
安堵による、肩の力のまったく抜けた宣言ではないか。

柔能く剛を制すというように、
もっとも強いのは何者をも屈服させる力ではなく、
何者にも屈服できる力だ。
「はい、死ねます。生きれます」と本心から言える人を
脅かせるものなど何もない。

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2012.03.31 (Sat)

「あきらめられない」が人間の本音

自己。
自己が間違いを持っているのではなくて、自己そのものが間違い。
不完全。
自己と考えるから他者ができる。
他者ができるから不完全になる。

不完全が嫌だと常に求め続ける。
常に生き延びようと必死。
完全になろうとするのは生き延びたいから。
もう大丈夫というところへ行こうと必死。

この自己を捨てようとするのも生き延びるため。
悟りという不思議な力を手に入れれば生き延びられると思っているから。
悟りまでも所有物にしようと。必死。

でもどんなに自己を高めても、
自己でないものが常にあるのだから、結局満足はできない。
常に餓えている。

衆生を離れて仏はない。
衆生とはまた別にどこかに仏がいるわけではない。

この世界は自己の間違いで成り立っている。
間違いでないものはない。
その間違いの真っ只中に間違いでないものが。あるのだろうか。

なんでいつまでもわからないんだろう、とか、
すぐに調子に乗ってもう嫌だ、とか、
煩悩ばっかりで汚い、とか、
そう感じる心は汚くない。のか。

「もうあと一歩なんだ」と。
もうあと一歩でどこかへいかなければならないのか。
「自己を殺す以外にない」と。
自己を殺してあとに何が残る。
結局生き永らえたいから自己を殺そうとしているのだ。
自己に自己を殺すことはできない。
仏による以外に自己をあきらめることはできない。

「もう嫌だ」という言葉は阿弥陀様の「おいで」という呼びかけに他ならない。
「助けてください」を離れて阿弥陀という人か仏かエネルギー体が
どこかにいるわけではない。

無義を義とする。
「人生に意味はない」と手放す。
意味を与えてくれるものを必死で探してるけど、
意味はないのだと引導を渡してくださるのが仏。
そうすることによって初めて、生きて死ぬことができる。

「救いとは何か」と聞かれて
「救いとは何だっけ」と考えるところに救いはない。
相対の世界に救いはない。
心に浮かんでくるものを自己と思い込むからだ。
現れては消え、現れては消え、そんなものは本当の自己ではない。
そんなものは鏡に映った虚像にすぎない。
何が映ったからと言って鏡が汚くなったり大きくなったりすることはない。

でも映る虚像を離れて鏡はない。
何も映さない鏡などない。
像のその中に鏡がある。

煩悩を離れて仏はない。
この煩悩の世界の真っ只中において、
どこかにそうではない世界があるのを夢に描くのではなく、
煩悩の中にいて、これでいいと思うことができるのが本当の救い。

なぜ理想郷を求めるのか。
「僕」と思った時点でその僕には何の根拠もないから。
だから安住の地を求める。
馬の鼻先に人参を吊るすようなもので、常に不安を抱えて走り回っている。

「こんな自己という幻想に振り回されるのは嫌だ」
というその心は用意した心なのか。
「すべて幻だ。空しい」
というその心は幻か。

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16:41  |  未分類  |  トラックバック:(0)  |  コメント:(0)
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